前橋市小屋原町に位置する学生たちの最寄り駅、駒形駅のすぐそばに2020年2月オープンした「木下商店」。何もなかった駅前に突如現れたそのお店は、自分たちの夢を叶えながら地域の子どもたちを支える、愛に包まれた喫茶店でした。
木下商店という店が駒形駅近くにあることを思い出した。駒形駅は母校の最寄り駅であり、街へ遊びに出るときの出発地点でもあるからまさに「地元の駅」で、その目の前にできたこの店はオープン当初から気になっていた。
調べていくうちに、「廃工場をリノベーションした喫茶店」「地域の子どもたちのために宿題カフェとしても開放」といった言葉が目に入ってきた。おしゃれな喫茶店だけど、“おしゃれなだけの喫茶店”ではない。パワフルさというか、鮮やかさというか……絶妙にどこにもないオリジナルな雰囲気を感じながら(そして淹れていただいたアイスコーヒーを飲みながら)、2時間かけてじっくりお話を伺うことができた。
東京都内で英会話スクールのマーケティング部門で販促や広告を担当していた木下友嗣さんと、クレー射撃でオリンピックを目指していた円さん。選手とスポンサーの関係にあったふたりが出会い、友嗣さんの地元である前橋市にUターンした。夫婦で自然素材を扱う建築会社に勤務したのち、2020年2月に念願の喫茶店「木下商店」をオープンした。
店で提供するのは、体に優しいフードやドリンク。ジャマイカ料理のジャークチキンはスパイスの複雑な味わいで、何度でも食べたくなる。卵ではなく豆腐を練り込んだトーフマフィンはやわらかい甘みがあり、噛むたびに旨味を感じる幸せなおやつだ。トーフマフィンは、卵アレルギーをもつ息子さんのために作ったもの。「僕らが生きてきて不便に感じてきたことを裏返して出している」という食事の数々は、あらゆる人が楽しんで口にできるように作り上げる。
店の一角では、雑貨の販売も行なっている。雑貨店店長の経験をもつ円さんがセレクトしたこだわりの品々は、店内のインテリアとしても高いポテンシャルをもってそこにある。
身近な課題に向き合うことで生まれた「宿題カフェ」
木下商店は、放課後に「鍵っ子」となる小学生を夕方まで店内で見守る「宿題カフェ」として開放されている。始まりは、「子どものそばにいられる環境を作りたい」という円さんの思いだった。
「私は実家が自営業で、子どもの頃は家に帰れば必ず親がいました。だけど息子は、両親である私たちが勤めに出ているから、家に帰っても誰もいなくて1人で留守番をするしかなかった。私も息子に寂しい思いをさせたくないから、早く帰らなきゃと焦る。それが苦痛だったんです」(円さん)
学校と家庭の間に、安心できる中間地点があれば。この課題に普遍性を感じ、育成会やPTA等のコミュニティで話題に出すと、同じ悩みを抱える家族が多くいることを知った。喫茶店と雑貨屋に加え、あとひとつ何か特徴的な要素がほしいと考えていたふたりは、必然性に背中を押されて宿題カフェの設置を決めた。
宿題カフェの整備費用を募ったクラウドファンディングでは、目標金額を大きく超えた支援が集まった。現在は地域の子どもが学生ボランティアに宿題を教わったり、ボードゲームをしたりして過ごす姿があり、まさに学校と家庭をつなぐクッションの場所として機能している。
自身のため、そして子どもたちのためにと発想された宿題カフェは結果的に地域の課題を明らかにし、さらにはその解決の一翼を担うことにもなったのだ。
「アットホームっていう簡単な言葉じゃなくて、『ここに行けば木下のおじさん、おばさんがいるよね』みたいな場所にしたいんです。それで15年後くらいに、ここで宿題をしていた子が子どもを連れてくる日とかを想像しちゃいますね」(友嗣さん)
「いつかやりたかった」を叶える出会い
「人間らしい生活」とは一体どんな生活なのか。現状に満足していたら、あまり考えることのない問いかもしれないが、木下商店のふたりにはその問いを強く意識するような経験があった。
「群馬県に戻って実家のすぐ横に家を建てた時は、まだ東京の会社に勤めていたので、片道3時間かけて通勤していました。でも3年半で限界がきたんです。家族がまだ寝ている時間に家を出て、家族がもう寝ている時間に家に帰る。家族との時間を大切にしたいと思って家を建てたのに、全くその時間がなくなり、暮らしを見直す必要があると思いました」(友嗣さん)
それから友嗣さんは、東京へ通うことをやめ群馬県で就職。そこから約3年が経った時、“いつかやりたいこと”だった喫茶店の開業が頭に浮かんだ。その思いを持ち始めたきっかけは、サラリーマン時代に通っていた定食屋のおじさんとおばさんだ。「レゲエ好き」という共通点をきっかけに話すようになった定食屋のおじさんとおばさんは、会社の上司よりも憧れる存在だった。いつか、こんな仕事がしたい。ぼんやりと思っていたことを、実現する時が来たのかもしれない。
そして、それは円さんも同じだった。
神奈川出身で、専門学校を出てすぐに雑貨店で店長を任された円さんは、独立の夢を叶えるために語学留学。しかし帰国後、父に誘われて始めたクレー射撃の才能が開花し、北京オリンピックへの出場を目指すことになった。その中で、スポンサーである英会話スクールに勤めていた友嗣さんと出会ったのだ。
惜しくもオリンピックへの出場は叶わなかったが、家族ができ、群馬へ引っ越した。ここから、円さんの人生に対する考え方は大きく変わっていくことになる。
「子どもを持ってから、自分以外の視点で考えられるようになった気がします。生活のために稼ぐよりも、やりたいことをやっている姿を見せる方が、子どもたちにとっても自分にとっても良いんじゃないか、とか。それで雑貨屋に対してまた熱が出てきたんです。
そもそも、人間にとって一番自然な働き方は『晴耕雨読』だと思っていて。まさに昔の農家のように、日が出ているときに働いて、暗くなったら休む。行きたくないのに仕事に行かなくちゃいけないとか、必要もなく夜遅くまで残業をするとか、そういう『不自然なこと』には疑問を持っていました」(円さん)
そんなふたりの願いを実現させる場所が、もしあれば……と物件を探しているとき、現在の木下商店となる工場が目に入った。「こんな駅前に、自宅の近くに、こんな場所があったのか」。工場はすでに廃業していて、物置として使われているようだった。
気になったふたりは見つけたその足で大家さんのもとを尋ね、自分たちの思いを伝えた。すると、大家さんは二つ返事でOKしてくれた。驚いて話を聞いてみると、実は同じようにこの物件を見学に来た会社がいくつかあったのだが、物件が大きすぎるという理由で契約まで至らなかったという。「これは、ほっといたら取られるぞ」。そう感じたふたりは覚悟を決め、喫茶店兼雑貨屋の開業に向けて準備を始めたのだった。
「楽」よりも「好き」を選ぶこと
大きな木に守られているような店舗を表現した木下商店のロゴ。これは、もとよりイベントや以前の職場でふたりと関わりのあった貼り絵作家のちぎらまりこさんへ依頼したものだそうだ。
また、駅前を歩く人々に向けて店の名前を伝える「顔」は、一般的な看板ではなく外壁に直接ペイントしたもの。手掛けたのは、円さんが雑貨屋時代にその作品に惚れ込んだチョークボーイ氏率いるWHW!だ。店内の個性的なテーブルやチェアは子どもと一緒に通っていた「CAFE ANALOG」から譲り受けたものだし、リノベーションの施工は前職から付き合いのある業者にお願いした。
つまり築50年になるこの館は、見渡す限りの「他の誰でもなく、あなたにお願いしたい」の愛でリノベーションされているのだ。
また、木の骨組みを組んだりトイレを増設したりといった店内の改装は、ノウハウを教わりながら自らも着手したという。
「想像以上に大変だったんですけど、やっぱり自分で作ったものには愛着が湧きますね。40歳になって初めて、自分がものづくりが好きだったんだということに気付きましたよ(笑)」(友嗣さん)
便利な世の中になったから、お金を払えば簡単にいろいろなものが手に入る。でも、「自分にとって大きな意味がある場所」を一緒に作る人は自分で選びたい。木下商店は、そんなこだわりの関係性の中でつくられた空間だ。
木下商店のふたりは、「この人と、いつか何か面白いことができるかもな」という好奇心のアンテナを常に立てている。その面白いこととは一体何なのか、いつ実現できるのかは分からない。でも、いつか来るそれにわくわくすることができる。
知ることが生む「受け入れる器」
「多様性を大切にする」。口にするのは簡単だけど、実は現在主流となっているビジネスの中でこれを実践するのは難しい。お客を「選ぶ」ことで客層を均質化できるなら、そのほうが経営としてはラクだ。多様であることは、一筋縄ではいかない複雑さを生む。つまり想定できない。
しかし、それを「リスク」ではなく「わくわくの原因」と捉えるのが、木下商店のアイデンティティだ。お年寄りが昼寝する。子どもが宿題をする。大学生がおしゃべりする。ヴィーガンが食事する。いろんな属性の、いろんなバックグラウンドを持った人が同じ空間に集まるだけで意味がある。
「人が人に指をさす理由は、相手を知らないからだと思うんです。違う言葉を喋っているから怖いとか、見た目が違うから嫌いとか……。だから、とにかく知ることが大切なんです。『つながる』まで行かなくても、『確かにいる』ってことが分かれば、攻撃しなくなる」(友嗣さん)
その通りだと思った。僕は過去、まさに他人を攻撃してしまった経験があるけれど、それはたぶん無知だったからだ。人の話を聞き、歴史や文化にふれて、経験と文脈が接続されたときに、たくさんの思い込みに気づき、ひどく反省した。こうやって自分の「知らなさ」に気づくことができたのは、おそらく、社会に出たからだった。
「社会に出る」というのは、「現場に出る」と言い換えられる。現場があることはめちゃくちゃ大事だ。
たとえば、木下商店の宿題カフェの活動もひとつの重要な「現場」になっている。宿題カフェでは学生ボランティアを迎え、教員を目指す学生が子どもたちに勉強を教えている。ここは、教育実習とは異なる、リアルな教育の現場として地域に存在する。そして結果的に、この活動が地域住民に役立っているというかたちだ。
とはいえ、現場は「本番」だから怖い。学校の中の失敗は将来の糧にすればいいが、社会の中で失敗することは本当の失敗を意味する場合が多い。これが繰り返されると顔を合わせられる人がどんどん減って、外に出られなくなる。それはつらいことだ。
それでも現場に出たほうが良いのは、結局のところトライできる場所が現場しかないからだ。トライしないと、自分の位置がわからない。何ができて、何ができないのか。どのくらいの手応えがあるのか。手探りで位置取りをして初めて、地に足がつく。人生が始まる。
実際、僕はそういった練習の場があったから今こうやって仕事ができている。大学卒業後、就職せずに生きていこうとした自分に、「やってみなよ」と記事を書かせてくれる人がいて、へたくそでも打席に立てる現場があった。
だれかのチャレンジを応援するときには、コストがかかる。木下商店のふたりは宿題カフェについて「2階の席が使えるので売上を落とさずに済む」と言うが、宿題カフェの活動自体は直接的な売上を出さないし、子どもを預かることの責任もあり、決してラクではないはずだ。
でも同時に、それは木下商店にとって必要なコストなのだろう、とも思う。「将来必ず返ってくるから」というわけでもない、「役立つことが楽しいから」というコンサマトリーな優しさのみを原動力としてコストをかけている。
不思議なことに、チャレンジを受け入れる器のある人はみな「自分は成熟している」とは言わず、自身もまた未熟と評価している(のではないかと感じることが多い)。その未熟の自覚があるからこそ優しいし、他人と手を組み、みんなで社会を作っていこうよと考えることができるのかもしれない。そして、この優しさを積み重ねることこそが人々に心の豊かさをもたらすのだと思う。
今回のインタビューを「ローカルビジネスの成功例」として切り取るのであれば「何があったから実現できたのか」を書くべきだが、結局は「ふたりが優しくて人間らしいから実現できた」としか言えない。ナチュラルであることはうまく噛み合う。生態系のように、生物のように、勝手に整合性が取れていく。
いわゆる「ていねいな暮らし」的な世界観とは少し違う。木下商店には、近隣に向けた具体的なアクションがある。社会に開いた力強さがある。大きなイデオロギーに対して距離を置き、「私たちはこれでいいので」と自分を守るように閉じこもることも場合によっては大切だけど、今ある課題を「本当にどうにかしたい」のであれば、おかしいことをおかしいと言ったり、足りていなければ作ったり、とにかく手を動かさなければいけない。誰かがやるのを待つのではなく、自分ひとりで小さく始めなければいけない。
今回、僕にとって一番うれしかったのは、自分の地元である駒形駅前にできた待望のお店が、「インパクトはあるが商業的で無意味な使い捨ての場所」ではなく、「地域や人々と体系的につながりながら長く息づく、いろんな人の大切なものが詰め込まれた場所」だったことだ。
最近は地方にも「おしゃれな店」が増えてきた。そこに「お客様」として通い、お金を媒介して良きビジネスパートナーになるのもアリっちゃアリだ。でも、僕たちが暮らす地域の中で目的と責任を共有する「関係者」として関わってみると、僕たちを起点に文化が混ざり合い、新たな課題が見つかり、立ち向かうプレイヤーが生まれる。これからも、そんな事例を集めていきたいと思った。